■74年間、誰も正体を知らなかった男 ~ ソマートンマン(セクション3)
セクション2の続き。
― 論理の男、死を詠んだ男 ―
カール・ウェッブは電気技師でした。
機械や電気を扱い、計器を製作する。
数字と構造と論理の世界です。
ところが、私生活のウェッブは、かなり違った顔を持っていました。
彼は詩を愛していました。
しかも、自ら詩を書いていました。
妻ドロシーの証言によれば、その詩の多くは「死」を題材にしていたといいます。
そして、ここで思い出されるのが、サマートン・マンのポケットに残されていた一冊の本です。
『ルバイヤート』。
その最後のページから切り取られていたのが、
「TAMÁM SHUD」
という言葉でした。
意味は、
「終わった」
です。
そして、身元がほぼ特定された男は、生前から死を題材にした詩を書いていた。
もちろん、これだけで事件の意味が説明できるわけではありません。
しかし、スパイ説や暗号説が作り上げた「謎の男」のイメージとは、かなり違います。
そこにいたのは、国家機密を握った超一流の工作員ではなく。
電気技師として働き、詩を書き、家庭では問題を抱え、精神的にも不安定になっていた、一人の男だった可能性が高い。
1946年には、ウェッブはエーテルを大量摂取して自殺を図っています。
妻は、その後も彼の性格が荒れていったことを証言しています。
1946年、妻は彼のもとから逃げました。
1947年にはウェッブは家を離れ、その後の消息が途絶えています。
こうして見ていくと、1948年のサマートン・ビーチで発見された男は、突然現れた謎の人物ではなかったのかもしれません。
その前には、すでに何年も続いていた人生があった。
ただ、それを知る者がいなかっただけです。
そして、もう一つ。
ウェッブの身元が明らかになったことで、あの「暗号」にも、思いがけない現実的な解釈が浮かび上がってきます。
― 暗号の正体は…… ―
サマートン・マン事件で最も有名なもの。
それは、
WRGOABABD
MLIAOI
WTBIMPANETP
MLIABO AIAQC
ITTMTSAMSTGAB
と続く、あの文字列です。
70年以上もの間、これを解読しようとする人々がいました。
スパイの暗号。
軍事情報。
一回限りの暗号鍵。
秘密結社のメッセージ。
様々な説が生まれました。
では、現代のコンピュータにこの文字列を入力すれば、何か分かるのでしょうか。
実は、そう簡単にはいきません。
暗号解読では、文字の出現頻度や並び方、繰り返されるパターンなどを分析します。
例えば、単純な換字式暗号なら、同じ文字がどの程度の頻度で現れるか、どのような文字列が繰り返されているかといった特徴が手がかりになります。
しかし、このメモは全部でわずか50文字。
通常の文章を暗号化したものなのか、単語や固有名詞の頭文字を並べたものなのか、それすら分かりません。
暗号の方式も、解読に必要な鍵も不明です。
コンピュータは膨大な組み合わせを試すことはできますが、そもそも何を探せば正解なのか分からなければ、答えを一つに絞ることはできません。
では、何の予備知識もなく、この文字列だけを見せられたら、何を推理するでしょうか。
まず考えたいのは、これが何かの長い文章から切り取られた一部分なのか、それとも、この文字列自体で意味を持つものなのかという点です。
仮に後者だとすれば、自分なら、何らかの単語や固有名詞の頭文字を並べたものではないかと推測します。
なぜなら、50文字では意味のある文章を構成するには短すぎますが、それぞれが単語の頭文字だとすれば、50個の単語からなる記録として読むことができるからです。
人名、地名、商品名、あるいは何かのリスト――。
個々の文字が、それぞれ別の単語や名前を表しているのかもしれません。
もちろん、普通の文章を暗号化したものという見方もできます。しかし、文字列だけでは、どちらなのか判断できません。
つまり、これは暗号解読というより、何かの記録を探し出すための手がかりに近いのかもしれません。
しかし、その記録が何なのか、文字列だけから突き止めるのは困難です。
やはり解読は不可能なのか――。
ところが、カール・ウェッブという男の人生を調べていくと、この文字列を読み解くための意外な手がかりが浮かび上がってきます。
― 暗号の正体は…… ―
彼は――
競馬が好きだった。
そして、賭け事も好んでいた。
これは単なる後世の推測ではありません。
2022年にウェッブの身元が調査された際、当時の離婚関連の法的文書なども詳しく調べられ、その中に彼が競馬や賭け事を好んでいたことを示す記述が見つかっています。
すると、あの文字列が急に現実的なものに見えてきます。
競走馬の名前。
賭けの組み合わせ。
自分だけが理解できる略号。
そして、ここで浮上するのが、アボット教授らが提示した一つの仮説です。
あの50文字は、競走馬の名前の頭文字を並べたものではないか。
つまり、誰もがスパイの暗号や軍事機密を疑っていた文字列が、実は競馬に関する個人的なメモだったのではないか、というのです。
そんな、あまりにも拍子抜けする結末です。
しかし、その方がこの事件には不気味さがあるかもしれません。
国家機密ではない。
ソ連のスパイでもない。
秘密組織から送られた暗号でもない。
一人の男が、自分にしか意味の分からない文字を、本の裏表紙に書き残していただけ。
そして、それを70年以上後の人間が、
「何か重大な意味があるはずだ」
と必死になって解読していた。
それは、死者が残した謎というより、
生きている人間が勝手に謎を作り上げてしまった
ともいえるからです。
― タマム・シュッドという「終幕」 ―
こうして事件を最初から振り返ると、サマートン・マン事件は、少しずつ違う姿へ変わっていきます。
1948年。
海岸で死んでいた、名前のない男。
ポケットに残された、
「終わった」
という一片の紙。
その紙を切り取った『ルバイヤート』。
裏表紙に残された意味不明の文字列。
電話番号。
動揺した看護師。
謎の石膏マスク。
スパイ説。
暗号説。
そして74年後。
そこから浮かび上がったのは、
カール・チャールズ・ウェッブ
という一人の男でした。
電気技師。
計器製作者。
詩人。
競馬好き。
そして、人生の中で精神的に大きく追い詰められていた人物。
もちろん、死亡原因についてはまだ完全に決着したわけではありません。
研究者側からは、過去の自殺未遂や精神状態、解剖結果などから、自ら毒物を摂取して死亡した可能性が指摘されています。
しかし、当時の検査で決定的な毒物が確認されていない以上、死の真相までは分かっていません。
それでも、74年前には名前すら分からなかった男の人生が、少しずつ具体的な姿を見せ始めたことは確かです。
そして最後に残るのが、あの言葉です。
TAMÁM SHUD――
「終わった」
かつては、これは何者かへの暗号なのではないかと考えられました。
殺人者からのメッセージなのか。
スパイの最後の通信なのか。
死を予告する秘密の言葉なのか。
しかし、もしそこにいたのがカール・ウェッブだったとすれば。
詩を愛し、死について詩を書き、ギャンブルを好み、家庭を失い、最後には誰にも知られない場所で死んだ一人の男だったとすれば。
この言葉は、もっと単純なものだったのかもしれません。
「終わった」
国家も、暗号も、スパイも必要ない。
一人の人間の人生が、そこで終わった。
そして、その人生を知らなかった私たちが、残された断片から巨大な物語を作り上げていたのです。
そう考えると、この事件で最も不気味なのは、最後まで解けなかった暗号ではありません。
74年もの間、世界中の人間が探し続けていた「謎の男」が、少しずつ生身の人間へと近づいていったことです。
海岸で発見されたあの日。
彼は何を考えていたのか。
なぜアデレードへ来たのか。
なぜ『ルバイヤート』を持っていたのか。
そして、あの文字列に何を書いたのか。
それらすべてが解明されたわけではありません。
けれど、彼にはもう、「サマートン・マン」という仮の呼び名ではない、本当の名前があります。
カール・チャールズ・ウェッブ。
1948年12月1日。
サマートン・ビーチで、一人の男の人生が終わりました。
そして74年後。
ようやく、その男の名前が戻ってきたのです。
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