■ロンドン地下に潜む黒い怪物 ~ ハムステッド下水道の黒豚
今回は「ハムステッド下水道の黒豚(The Black Swine in the Sewers of Hampstead)」。
19世紀のイギリス・ロンドンで語られた有名な都市伝説です。
地下の迷宮のような下水道には、巨大化した黒い豚の群れが棲みつき、人間を襲っている――ヴィクトリア朝時代のロンドン市民を震え上がらせた恐怖の物語です。
― 迷い込んだ1頭の雌豚 ―
伝説の始まりは、1頭の妊娠した雌豚でした。
ある日、開いたマンホールや排水口から誤ってロンドンの下水道へ転落してしまったといわれています。
迷路のような地下から抜け出せなくなった雌豚は、下水道で子どもを産み、生き延びました。
当時の下水には、生ゴミや家畜の内臓、屠殺場から流された廃棄物などが大量に流れ込んでおり、豚たちはそれを餌にして数を増やしていったと噂されています。
やがて地下だけで繁殖を繰り返した豚たちは、黒い毛並みと巨大な牙を持つ凶暴な怪物へと変貌した――そう信じられるようになりました。
― 下水道で働く者たちの恐怖 ―
この伝説を広く世に知らしめたのは、ジャーナリストのヘンリー・メイヒュー(Henry Mayhew)です。
彼は1851年の著書『ロンドン労働者とロンドン貧民』の中で、下水道にまつわる噂や労働者たちの証言を紹介しています。
当時のロンドンには「トッシャー(Toshers)」と呼ばれる人々がいました。
彼らは下水道へ潜り込み、流されたコインや金属片、骨などを拾って生活する危険な仕事をしていました。
トッシャーたちの間では、「下水道の奥へ入り過ぎると、暗闇から黒い豚の群れが突進してきて人間を食い殺す」という噂が広まり、武器を持って地下へ入る者もいたと伝えられています。
― なぜ地上へ出てこないのか ―
「それほど危険な怪物なら、なぜ街へ現れないのか?」
そんな疑問に対して、当時の人々はもっともらしい説明を考え出しました。
豚たちが地上へ出るには、テムズ川へ通じる下水道を進まなければなりません。
しかし、その途中には急流となるフリート川の水路があり、「豚は本能的に流れに逆らって泳ごうとするため、急流へたどり着くたびに引き返してしまう」と信じられていました。
その結果、豚たちは永遠に地下世界をさまよい続け、ハムステッド周辺の下水道から出られないというのです。
― 新聞が生んだ怪物 ―
この噂は新聞によってさらに大きく広まっていきます。
1850年には「下水道で黒豚を捕獲した」と主張する人物が現れ、見世物として公開して金を稼いだという記録も残っています。
さらに1859年には『デイリー・テレグラフ』紙が、「地下では黒豚が増え続けており、やがて地面を突き破ってロンドン中を埋め尽くすだろう」という、今でいうゴシップ記事を掲載しました。
センセーショナルな報道は人々の不安をあおり、伝説は都市中へ広がっていったのです。
― 伝説の元になった事件 ―
実は、この怪談にはモデルになった実話があると考えられています。
1736年、肉屋から逃げ出した1頭の豚がロンドンの下水道へ迷い込みました。
約5か月後、その豚は地下で餌を食べ続けて丸々と太った状態で発見されたといいます。
この出来事が時代とともに尾ひれを付けられ、「地下には巨大な豚の群れが棲みついている」という都市伝説へ発展したのでしょう。
― 下水道怪物伝説の原点 ―
現在では、ハムステッド下水道の黒豚を裏付ける証拠は存在しません。
しかし、この物語は「地下には怪物が潜んでいる」という恐怖を人々へ植え付け、その後の創作にも大きな影響を与えました。
特に、20世紀にアメリカで流行した「ニューヨーク下水道のアルビノワニ伝説」は、本作と非常によく似た構造を持っており、その元祖ともいわれています。
現実には存在しなかったかもしれませんが、ロンドンの地下迷宮が生んだこの黒い怪物は、都市伝説史に残る名作として、今なお語り継がれているのです。
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