■発見から27年で狩りつくされた巨大カイギュウ ~ ステラーカイギュウ
「雪のように真っ白なすばらしいその脂は最高品のオランダバターにも似てスウィートアーモンドオイルのような味と大変甘い香りがあったのでカップいっぱい飲むことができた」
今回はステラーウミザルの記事など、他記事でたびたび触れているステラーカイギュウ (Hydrodamalis gigas) です。
冒頭はステラーカイギュウの発見者であるドイツ人医師にして博物学者であったゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラー (Georg Wilhelm Steller) が「ステラーカイギュウの脂」について航海日誌に記したものです。
シュテラーは、かの有名な冒険家ヴィトゥス・ヨナセン・ベーリング (Vitus Jonassen Bering) 率いる聖ペトロ号に乗船するも、1741年、無人島近くで敢え無く座礁。
ここで遭遇したのが見たこともない巨大な生物、のちに発見者であるシュテラーの名を冠することになるステラーカイギュウです。
多くの船員たちが壊血病で倒れる中、ベーリングも航海半ばで壊血病で死亡します。
ベーリングに代わってシュテラーが指揮を執りますが、船を作り島を脱出するまでに10ヶ月も要し、その間、かれらがなんとか飢えをしのげたのはステラーカイギュウのおかげです。
シュテラーはこの生物を10メートル、24トンと見積もりましたが、現在では7~9メートル、体重10~12トンぐらいと考えられています。
シュテラーはステラーカイギュウを細かく観察し、航海日誌にとどめておいたおかげで絶滅してしまった現在でもどのような外見をした生物であったか窺い知ることができます。
「唇には無数の丈夫な剛毛が生え、下顎の剛毛はたいへん太く鳥の羽軸 (うじく) のようである。
目にはまぶたがなく、ヒツジの目より小さい。
耳の穴はたいへん小さくて、しかも皮膚には小さな穴やシワが多いため、皮膚を剥ぎ取らないと見つけるのは難しい。
前足は二つの関節からなり、その先端はウマの蹄にかなり似ている。
前足には指も爪もなく下側にブラシのような短く太い剛毛が生えている。
外皮は黒または黒褐色で厚さは2.5センチ、木のように固い。
頭部周りには大小の穴とシワがたくさんある。
その外皮は石膏でできた糸のような無数の繊維が垂直にぎっしりと並んでできている。
皮膚から簡単に剥げるこの外皮は、わたしの考えでは毛の密生した布のようなものである。
その下にある真の皮膚はウシの皮膚より幾分暑く、とても丈夫で色は白い。
この二枚の皮膚の下の体全体は指四本分の厚さの脂肪で覆われている」
しかしシュテラーによりこのカイギュウの存在が知れ渡ると、毛皮商人をはじめとするハンターたちがその肉や毛皮・脂を求め大挙して押し寄せ、大虐殺がはじまります。
しかしそれは長いことは続きませんでした。
1500~2000頭前後と、もともと生息数の多い生物ではなく、また、天敵がいなかったことから人間を恐れなかったことが災いし、いとも簡単に狩りつくされてしまったからです。
1768年、シュテラーの昔の仲間、イワン・ポポフなる人物が「カイギュウがまだ二、三頭生き残っていたので殺した」という記録を最後にステラーカイギュウの情報は途絶えます。
これはシュテラーの発見からわずか27年後のことです。
もしかすると人間たちの殺戮から逃れた個体が数頭どこかの島へと避難しかもしれません、確かではないもののステラーカイギュウらしき生物の目撃が1768年以降も数十年に渡って散見されたからです。
とはいえ、もしそれが事実としても繁殖できるほどの数ではなかったのでしょう、1962年のロシアの科学者によるかなり不確かな目撃情報を除いて、ステラーカイギュウの目撃は完全に絶えてしまったからです。
(image credit by F. John)
シュテラーは殺戮の際のステラーカイギュウたちの振る舞いも日誌に記しています。
「群れのメンバーは互いにたいへん愛し合っている。
一頭が銛 (もり) で突かれると、他のもの全部が助けようとした。
あるものは傷ついた仲間の周りに集まって輪を作り、(人間たちを) 近づけないようにした。
またあるものは (人間たちの) ボートをひっくり返そうとした。
そしてあるものたちは仲間の体に突き刺さっている銛を外そうと必死の努力を見せた。
ときにそれは成功することもあった。
また、死んで波打ち際に転がっている仲間の容態を気遣うかのように一頭のオスが2日続けてやってきたのを見て、われわれはたいへん驚いた」
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シュテラーが発見さえしなければ、、、
そう思う人もいるかも知れません、しかしこのときシュテラーが発見しなかったとしても発見が10年やそこら後ろにずれただけでしょう。
野生動物の保護活動も盛んな現代まで発見されなかったならば、奇跡の巨大生物として人類に迎えられ手厚い保護を受けることになったでしょう。
しかし時代は違います、少々発見が遅れたところで、海に浮かぶ宝石を当時の人々が放っておくわけもなく殺戮は避けられなかったでしょう。
当時のロシア人すべてが無慈悲にステラーカイギュウの殺戮に参加したわけではありません。
ことの重大さに気付いたロシア人ももちろんいました。
ヤコヴレフという人物はステラーカイギュウの全面的な捕獲禁止令を徹底させるよう当局に指示を出したのです。
しかしこの禁止令により救われたステラーカイギュウはただの一頭もいませんでした。
制定されたのがイワン・ポポフよって最後のステラーカイギュウが殺された数年後のことだったからです。
(参考文献)
「世界動物発見史」(ヘルベルト・ヴェント著)
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