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2025年12月1日月曜日

科学が生んだもうひとつの生命 ~ ゾンビ犬


■科学が生んだもうひとつの生命 ~ ゾンビ犬

「死んだ犬を蘇らせた科学者がいる」

しかもその犬は、彼の実験のためだけに命を奪われた――

そんな話を耳にしたら、誰しも「正気を失ったマッドサイエンティスト」を思い浮かべるに違いありません。

しかし、この実験を行った人物は、果たして本当に狂気の科学者だったのか。

― 科学者の影に潜むフランケンシュタイン ―


20世紀の実験室で、ひとりの科学者が「生命の境界」へと手を伸ばしました。

その物語は、伝説や怪談ではなく、実際に記録された科学史の一幕です。

命を失った犬を再び動かそうとした科学者――
そう聞くと、多くの人はメアリー・シェリーが描いた「フランケンシュタイン博士」を思い浮かべるかもしれません。

死者を蘇らせる禁忌の研究者。
雷鳴の中、亡骸へ電流を流し命を吹き込む男。

けれど現実の科学者、セルゲイ・ブルコネンコ (Sergei Brukhonenko) はそのような狂気の人物ではなく、真摯に生理学と向き合った研究者でした。

ただし彼が触れたのは、まぎれもなく「生命の境界」という、物語の博士と同じ領域だったのです。

― 世界初の人工心肺装置「オートジェクター」 ―


ブルコネンコが用いたのは、血液を体外循環させるための機械 「オートジェクター」。
心肺の働きを人工的に肩代わりする、世界初の人工心肺装置です。

最初の実験は切断された犬の頭部だけで行われ、まさに見た目にも衝撃的なものでした。

オートジェクターを通して酸素化された血液を送り込むと、頭部だけの犬はやがて耳を動かし、舌を出し、音に反応するような仕草を見せました。

科学者たちは息をのみ、一部の人々は「死からの帰還」と感じたといいます。

この映像は世界へ広まり、「ソ連が死を超えた」という誇張混じりの噂すら流れました。

続く実験では、犬の血流をすべて外部装置に頼る形で維持する試みが行われ、数日間生き長らえたとされています。

― 生き返ったのか、動いただけなのか ―


1922~1927年に行われたこれらの実験内容は、1940年に製作された「生物の蘇生実験 (Experiments in the Revival of Organisms)」というドキュメンタリー映画で観ることができます。

しかし今日では、これらの反応は真の蘇生ではなく、血流が戻ったことで起こった一瞬の反応 (「反射」) にすぎなかったとされています。

ただし当時の人々の目には、それは「生き物の応答」に見えた。
その強烈な印象が、やがて「ゾンビ犬」という名に結びついたのかもしれません。

フランケンシュタイン博士の創作が象徴する、「生命の秘奥へ踏み込んだ者への畏れ」。
その感情とよく似たものが、ブルコネンコ博士の実験を取り巻いていました。

― 科学が照らした、生と死の揺らぎ ―


ゾンビ犬とは怪物ではなく、科学がほんの一瞬だけ映し出した「生と死の揺らぎ」でした。

倫理観の定まらなかった時代だからこそ生まれた実験。

けれどその研究は、今日の人工心肺技術や救命医療の発展に多大な影響を与えたといわれています。

1920年代のソ連――

静かな実験室の片隅で、科学者はほんの短い瞬間、「死」を越える術を手にしたと確信しました。

それはもしかすると誤解だったかもしれません――
しかし、フランケンシュタイン博士が求めた「禁じられた火」が、現実の世界にかすかに灯った瞬間でした。

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