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2026年9月12日土曜日

英雄クペが追った巨大なタコ ~ テ・フェケ・ア・ムトゥランギ


■八本の影が導いた航海 ~ テ・フェケ・ア・ムトゥランギ

南太平洋――
星と風を読み、はるか海を渡ったマオリの人々。その古い伝承の中に、ひときわ異彩を放つ存在がいます。

今回は、テ・フェケ・ア・ムトゥランギ (Te Wheke-a-Muturangi)。

その名はマオリ語で「ムトゥランギのタコ」を意味し、祈祷師ムトゥランギが召喚したとされる「海の怪」です。

― 海を支配した呪術師と、追う者 ―


伝説によれば、ムトゥランギは、マオリの祖先の故郷とされるハワイキ(Hawaiki)に暮らしていた強力な祈祷師(トフンガ)でした。

そのムトゥランギが操っていたとされる巨大なタコが、テ・フェケ(Te Wheke)です。

あるとき、マオリ伝承に登場する英雄であり、優れた航海者として知られるクペ(Kupe)たちが、ハワイキの海で漁をしていました。

ところが、釣り針に付けた餌が何度も綺麗に奪われてしまいます。

その犯人を探ったところ、ムトゥランギが飼いならしていた巨大なタコ、テ・フェケの仕業だと分かりました。

クペはムトゥランギのもとを訪れ、テ・フェケを何とかするよう求めましたが、ムトゥランギはこれを聞き入れませんでした。

そこでクペは、自らテ・フェケを追うことを決意します。

こうして始まった追跡の航海は、クペを遠く海の彼方へと導き、ついにはアオテアロア(ニュージーランド)への到達につながったと伝えられています。

つまり、テ・フェケは単なる海の怪物ではありません。

その追跡そのものが、マオリの大航海とアオテアロアへの到達を語る重要な伝承の一部になっているのです。

― 科学的に見る「海の怪」―

(ヒゲクジラ(おそらくナガスクジラ系)のメキシコの砂浜に打ち上げられた死骸。しかし当時はコロッサル・スクイッドをはじめ、巨大イカの死骸と誤認されました)
(image credit: Wikicommons

では、このテ・フェケの正体は何だったのか。

多くの研究者が指摘するのは、ダイオウイカ (Architeuthis dux) やコロッサル・スクイッド/ダイオウホウズキイカ (Mesonychoteuthis hamiltoni) といった巨大頭足類の存在です。

これらは10メートルを超えることもある巨大なイカで、深海に生息するため、その生態には現在でも謎が多く残されています。

もちろん、テ・フェケは伝承の中では「タコ」として語られています。

しかし、古い時代の航海者が海上で巨大な頭足類を目撃した場合、それが現在の分類でいうタコなのかイカなのかを正確に区別できたとは限りません。

実際、北欧の海の怪物として知られるクラーケン(Kraken)も、巨大なイカとして描かれることがある一方、巨大なタコのように描かれることもあり、その姿は必ずしも一定していません。

巨大な腕を海面から伸ばし、吸盤の並んだ異様な姿を見せる生物――

その圧倒的な姿が人々の記憶に残り、やがて「巨大なタコ」という怪物として語り継がれていったとしても、不思議ではないでしょう。

テ・フェケが実際にどのような生物をモデルにして生まれたのかは分かりません。

それでも、深海には人間がほとんど目にすることのない巨大な頭足類が実際に存在しています。

そう考えると、テ・フェケという怪物も、完全な空想だけから生まれたとは限らないのかもしれません。

― 怪物が知恵の象徴に変わるとき ―

(ニュージーランドのアーティスト、リサ・レイハナ (Lisa Rihana) が作成した全長15メートルのテ・フェケ・ア・ムトゥランギ)
(image credit: Wikicommons)

現代ニュージーランドでは、テ・フェケはもはや恐怖の存在としてだけ語られているわけではありません。

むしろ、その八本の腕は「人と人とのつながり」や「心身の調和」を象徴するものとして、新たな意味を与えられています。

その代表が、マオリの教育者・学者ランギマリエ・ローズ・ペレ博士(Dr. Rangimarie Rose Pere)が1997年に体系化した「テ・フェケ・モデル(Te Wheke Model)」です。

これは、マオリの伝統的なタコのイメージをもとに、人間の健康や幸福を一つの側面だけでなく、家族、精神、心、身体、文化、先祖、感情など、互いに結びついたものとして捉える考え方です。

その構造も非常に象徴的です。

タコの頭部は家族を表し、八本の腕には、人間の精神性、心、身体、家族やコミュニティとのつながり、生命力、アイデンティティ、先祖から受け継いだもの、感情といった要素が割り当てられています。

どれか一つだけが健全ならいいのではありません。

八本の腕が互いに絡み合うタコの姿そのものが、人間の幸福もまた、さまざまな要素が支え合うことで成り立つことを表しているのです。

現在では、この考え方はニュージーランドの医療や福祉、教育などの分野でも知られています。

かつて人々を恐怖に陥れた「八本腕の怪物」は、長い時を経て、人間がよりよく生きるための知恵を象徴する存在へと姿を変えたのです。


― 海の底の静かな知性 ―


テ・フェケ・ア・ムトゥランギは、神話と科学、恐怖と叡智、その狭間に棲む存在です。

かつて人々が恐れた八本の腕は、現代では人と家族、社会、そして過去と未来をつなぐ象徴になりました。

それでも、海の底にはいまなお、人類がほとんど知らない巨大な頭足類が生息しています。

暗い海の中で、八本の腕をゆっくりと揺らすその姿を、古代の航海者たちもまた見ていたのでしょうか。

テ・フェケという怪物が完全な空想だったのか、それとも実在の何かを見た記憶から生まれたのか――
その答えを抱いたまま、巨大な頭足類は今日も、光の届かない深海のどこかで静かに息づいているのかもしれません。

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