■74年間、誰も正体を知らなかった男 ~ ソマートン・マン(セクション1)
今回はタマム・シュッド事件(Tamám Shud Case)。
1948年、オーストラリア・アデレードの海岸で、一人の男が死体となって発見されました。
身分証はない。
財布もない。
衣服のタグは切り取られ、男が誰なのかを示すものは何一つ残されていませんでした。
そして、その男のポケットから見つかったのは、「終わった」という意味を持つ一枚の紙片。
さらに、その紙片を切り取った詩集の裏側には、誰にも解読できない文字列が残されていました。
この事件はやがて、スパイ、暗号、毒殺、謎の女、国家機密といった様々な物語をまといながら、世界で最も有名な未解決事件の一つになっていきます。
しかし74年後。
その「謎の男」は、ある一人の人物へと戻されることになります。
― 浜辺の遺体 ―
(ソマートン・マン)
(image credit: Wikicommons/Public Domain)
1948年12月1日。
オーストラリア南部、アデレード近郊のソマートン・パーク・ビーチ(Somerton Park beach)。
早朝、海岸を通りかかった人々が、防波堤のそばに座っている一人の男を見つけました。
男は壁にもたれかかり、両脚を伸ばしていました。
頭は少し傾き、腕は自然に落ちています。
まるで、海を眺めながら眠っているようにも見えました。
しかし、男は死んでいました。
前夜にも、同じ場所で男の姿を見た人がいました。
午後7時頃。
近くにいた人物は、男が右腕を動かした後、そのまま動かなくなったと証言しています。
それでも、誰も「死体」だとは思いませんでした。
夜の海岸で、酔った人間が眠っている。
その程度にしか見えなかったのです。
翌朝、警察が現場に到着します。
そこで初めて、この男が何時間も同じ姿勢で死んでいたことが分かりました。
男は身長約180cm。
年齢は40~45歳ほど。
身体は鍛えられており、肩幅が広く、腰は細い。
明らかに健康状態の悪そうな人物ではありません。
むしろ、身体的には非常に良好な男性に見えました。
ところが、身元を調べようとした瞬間から、この事件は奇妙な方向へ進み始めます。
財布がない。
身分証がない。
所持品から名前を特定できない。
衣服についていたメーカーなどのタグも、意図的に切り取られていました。
男は、自分が誰なのかを示すものをほとんど残していなかったのです。
しかも、靴には砂浜を長時間歩き回ったような汚れがほとんどありませんでした。
そのため、捜査官の間では、男が別の場所で死亡した後、誰かによって海岸まで運ばれたのではないかという可能性も考えられました。
さらに、解剖結果が問題を複雑にします。
男の脾臓は異常なほど腫れ上がっていました。
胃には血液があり、毒物による死亡の可能性も疑われました。
ところが、当時の検査では決定的な毒物を検出できません。
外傷も、明確な殺人の痕跡もありません。
つまり、
「死んでいることは確か」
なのに、
「なぜ死んだのか」
が分からない。
そして何より、
「誰なのか」
が分からない。
こうして、男は新聞などで「ソマートン・マン(Somerton Man)」と呼ばれるようになります。
名前のない死体。
それが、この事件の始まりでした。
― 「終わった」という肉声 ―
捜査官が男の衣服を詳しく調べると、ズボンのポケットに小さな隠しポケットがあることが分かりました。
その中には、紙切れが一枚だけ入っていました。
紙には、
TAMÁM SHUD
と印刷されています。
これはペルシア語で「終わった」「完了した」という意味の言葉でした。
なぜ、死体のポケットにこんな言葉が入っていたのか。
そもそも、誰が何のために持っていたのか。
警察は、この紙片が本の一部ではないかと考えます。
そして調査の結果、ある詩集へと辿り着きました。
英国の詩人、エドワード・フィッツジェラルド(Edward FitzGerald)による『ルバイヤート』。
紙片は、その本の最終ページから切り取られたものだったのです。
「終わった」。
死体のポケットから出てきた最後の言葉。
それだけなら、自殺を暗示する単純なメッセージだったのかもしれません。
しかし、事件はここで終わりませんでした。
警察は、紙片を切り取られた『ルバイヤート』の本そのものを探し始めます。
そして、ついに一冊の本が発見されました。
その本の裏側には、鉛筆で書かれた奇妙な文字列が残されていたのです。
― 破られた詩集と暗号 ―
(実際のメモの画像)
(image credit: Wikicommons/Public Domain)
本の裏表紙には、アルファベットが5行にわたって並んでいました。
WRGOABABD
MLIAOI
WTBIMPANETP
MLIABO AIAQC
ITTMTSAMSTGAB
文章ではありません。
少なくとも、普通の英語として読むことはできない。
しかし、完全なランダムとも思えない。
同じ文字が何度も登場し、一定のパターンを持っています。
まるで何かの規則に従って書かれているようでした。
当然、最初に疑われたのは暗号です。
しかも時代が時代でした。
第二次世界大戦が終わってから、まだ3年しか経っていません。
世界は冷戦へ向かいつつあり、オーストラリアも軍事・諜報活動と無縁ではありませんでした。
そのため、
「この男はスパイだったのではないか」
「文字列は暗号なのではないか」
「何者かから指令を受けていたのではないか」
という説が生まれていきます。
後には、オーストラリアとイギリスが共同で運用していたウーメラのミサイル実験場と結びつける噂まで現れました。
しかし、決定的な証拠はありません。
暗号の専門家が文字列を調べても、確実な答えには辿り着けませんでした。
短すぎるのです。
これだけの文字数では、どのような暗号方式が使われたのかを特定することが難しい。
何らかの暗号なのか。
単なる略語なのか。
あるいは本人にしか意味の分からない記録なのか。
その正体は、70年以上にわたって分かりませんでした。
そして、この本にはもう一つの手掛かりがありました。
電話番号です。
それを辿った先にいたのが、一人の女性でした。
セクション2へ続く。
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