― 予兆と静寂 ―
「何かがおかしい」と最初に気づいたのがいつだったのか、正確には思い出せない。おそらく、それはごく些細な、日常のテクスチャの綻びのようなものだった。
例えば、朝、目が覚めたときに感じる、街の静けさ。以前は聞こえていたはずの遠くの交通騒音や、隣人の話し声が、まるで厚い毛布に包まれたように、不自然に吸い込まれて消えていた。世界から「背景ノイズ」が失われ、無響室のような空気がアパートを包んでいた。
私は自室に閉じこもることに決めた。理由は単純だ。外の世界の「空気」が変わってしまったからだ。
窓から見える空の色。街路樹の揺れ方。それらすべてが、どこか「低解像度なレンダリング」を見せられているような、安っぽい書き割りに見え始めていた。
― 隔離 ―
私は窓をすべて厚い板で塞ぎ、ドアにはホームセンターで買ってきた鍵を五つ追加した。これでもう、外の「あれら」は物理的な手段では入ってこられない。
唯一の外界との繋がりは、このコンピュータだけだった。青白く光るモニターだけが、私の正気を、この現実へと繋ぎ止めている。
数時間が経過した。メールの受信トレイに、一通のメッセージが届く。差出人は、親友のマークだった。
『おい、ジョン。どうしたんだ? 電話に出ろよ。みんな心配してるぞ。外はいい天気だ。一緒に昼飯でも食いに行こう。ドアを開けてくれ』
私は返信を打とうとして、指を止めた。……待てよ。マークが「いい天気だ」と言っている?
私が窓を塞ぐ直前に見た空は、鉛色に濁り、およそ太陽の光など期待できないような、不吉な色をしていたはずだ。私の網膜が捉えた「現実」と、彼の送ってきた「情報」が一致しない。
だとすれば、今、私のドアの向こうに立っているのは、本当に「マーク」なのだろうか。あるいは、彼の記憶を完璧にサンプリングし、私をおびき出すために最適化された、別の「何か」なのだろうか。
― 情報の汚染 ―
一週間が過ぎた。あるいは、もっと経っているのかもしれない。板で塞いだ窓の隙間から差し込む光さえ信じられず、私は時間の感覚を完全に失っていた。
マークからのメールは、その後も執拗に届き続けている。だが、その内容は徐々に変質していった。最初は「心配している」という友人としての言葉だった。それが今では、私の記憶の奥底にある断片を繋ぎ合わせた、不気味なパズルのようになっている。
『なあジョン、覚えているか? 大学の裏にあったあの店で食ったハンバーガー。あの時のお前、ケチャップをシャツにこぼして……笑えたよな。今すぐドアを開けてくれれば、またあの店に行けるんだ』
私は震える手でモニターを見つめた。……確かに、そんなことはあった。だが、何かが違う。
マークはあの時、笑ったのではない。「ひどく怒った」のだ。あれは、私が彼から借りた、彼の一番のお気に入りのシャツだったからだ。
ドアの向こうの存在は、私の記憶をデコード(解読)している。だが、それは完全ではない。文脈や感情の機微を理解せず、ただ事実のデータだけを繋ぎ合わせ、私を誘い出すための「餌」を生成しているのだ。
― 完璧な声 ―
私は恐怖のあまり、コンピュータのスピーカーの線を切った。それでも、音は聞こえてくる。壁の向こう側、あるいは換気口の奥から。愛する恋人、エイミーの声だ。
「ジョン、お願い。そこにいるんでしょ? 答えて。外はこんなに静かで、平和なのよ。あなたが怖がっているものなんて、どこにもいないわ」
その声は完璧だった。あまりに完璧すぎて、胃の奥がせり上がるような吐き気を催した。
なぜなら、その声は、私がかつて留守番電話に保存し、何度も繰り返して聴いた「あの時のフレーズ」と、まったく同じピッチ、同じ間隔で再生されていたからだ。
外界は、私を「デコード」しようとしている。私の記憶を。愛した人々を。そして私の恐怖を。すべてをデジタルなノイズとして吸い上げ、私をこの部屋から引きずり出すための「貌(かお)」を作り上げている。
― 扉の向こう側 ―
どれほどの時間が過ぎたのか、もう私には分からない。コンピュータの画面は、いつの間にか激しい砂嵐(スノーノイズ)に支配されていた。私はその砂嵐の中に、かつて愛した人々の顔が、苦悶に歪みながら現れては消えるのを見続けていた。
その時だった。背後のドアを、激しく叩く音が響いた。これまでの「模倣された丁寧なノック」ではない。それは、暴力的で、物理的な破壊の意志を伴った衝撃だった。
「ジョン! 頼む、開けてくれ! 中にいるのは分かっているんだ!」
それはマークの声だった。だが、今の私には分かる。その声の裏側には、何千もの機械の歯車が噛み合うような、冷徹な非人間性が潜んでいる。私は震える手でナイフを握りしめ、部屋の隅にうずくまった。
「来るな! お前はマークじゃない! 私を外へ引きずり出して、『あちら側』のシステムへ書き換えようとしているんだろう!」
ドアの継ぎ目が悲鳴を上げ、蝶番が弾け飛んだ。光が――不自然なほど眩しい、白濁した光が部屋になだれ込んでくる。
― 救助 ―
それは、白い防護服のようなものに身を包んだ、数人の人影だった。彼らは私を見て、ひどく狼狽したような声を上げた。
「……なんてことだ。ひどい臭いだ。ジョン、君なのか?」
リーダーらしき男が、私に歩み寄ろうとする。私は叫び、ナイフを振り回した。彼らの背後――開かれたドアの向こう側に見える景色。
そこには、私が知っている「街」などなかった。空全体を埋め尽くす、巨大な肉のような質感を持った「何か」。そして、絶え間なく降り注ぐ黒い灰の雨。
だが、彼らにはそれが見えていないようだった。彼らは私を無理やり床へ押さえつけ、腕に鋭い針を突き刺した。
「落ち着け、ジョン! もう大丈夫だ。ここは安全だ。君は少し……精神(サイコーシス)を病んでいるだけなんだ。今、助けてやるからな」
― 偽の現実 ―
視界が遠のいていく。意識が途切れる直前、私は見た。私を抱え上げている男の顔が、一瞬だけ、グリッチのように歪み、その下の「真の貌」が剥き出しになるのを。
彼らは、私を治療しに来たのではない。私という「異物」を、彼らの正気という名の「偽のレンダリング」の中に、強制的に再構築しようとしているのだ。
私は、眠りにつく。
次に目が覚める時、私は「外は平和だ」と微笑む、彼らの一部……上書きされた「幸福なデータ」になっているのだろう。



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