■地下道の影 ~ サウスエンドのラットマン
イギリス南東部、エセックス州サウスエンド=オン=シー(Southend-on-Sea)。
この町には、夜の地下道にネズミのような異形の怪物が現れるという、奇妙な話が伝わっています。
それが、サウスエンドのラットマン(Ratman of Southend)。
舞台となるのは、実在する町の地下道です。なかでもクイーンズウェイ(Queensway)地下道は、地元でも不気味な場所として語られ、夜に通るのを嫌がる人もいます。
ネット上には、2009年に地元のフォーラムへ投稿された、地下道で奇妙な物音を聞いたという書き込みも残っています。もちろん、それだけで怪物の存在が証明されるわけではありません。しかし、こうした何気ない体験談が、怪談の舞台となった場所に現実味を与えているのも確かです。
ラットマンには、大きく分けて2つの系譜があります。
ひとつは、寒い夜の地下道で命を落とし、死後にネズミに顔を食い荒らされたホームレスの男性の幽霊。もうひとつは、かつての市長が世間から隠した、ネズミのような姿をした子供の怪物です。
まったく異なる2つの話ですが、どちらにも共通しているのは、地下道に現れる人間ともネズミともつかない異形の存在。
そして、この怪異には、遭遇した際に守らなければならないという、奇妙なルールまであるのです。
― ホームレスの幽霊説 ―
最も広く語られるのは、一人の老いたホームレス男性にまつわる話です。
非常に寒く、雨の降る夜。男性はサウスエンド・ビクトリア駅付近の地下道に身を寄せ、寒さをしのいでいました。
しかし、地元の若者たちに激しい暴行を受け、唯一の暖をとる手段だった毛布まで奪われてしまいます。
男性は怪我と低体温症によって命を落としました。そして、その死の前後に、地下道に巣食う無数のネズミに顔を食い荒らされたというのです。
やがて地下道では、壁を爪で引っかくような音や、ネズミのような甲高い鳴き声が聞こえるようになりました。暗がりには人影のようなものが現れ、そこを通る人々を不気味な気配がつけまとうようになります。
なかには、地下道を歩く老人の後ろ姿を見かけ、追い越そうとしたところ、老人がゆっくりと振り返ったという話もあります。
その顔には、目も鼻も口もありません。ネズミに食い荒らされたかのように、顔そのものが失われていたというのです。
こうした「顔のない老人」の話は、ラットマンの伝承が広まるなかで語られるようになった派生形のひとつです。古くからの伝承にある、ネズミに顔を食われたというエピソードが、より直接的で恐ろしい目撃談へと変化したのかもしれません。
さらに、この怪異には奇妙なルールがあります。
もしラットマンに遭遇してしまったら、足元に小銭を投げ落とさなければならないというのです。
なぜ、小銭なのでしょうか。
老人の幽霊説を知ると、そこに何か意味があるようにも思えてきます。
生前、暴行を受け、毛布まで奪われて命を落とした男性。そんな悲惨な最期を迎えた人物と、遭遇した者が小銭を投げるという奇妙なルール。
それがもともと何を意味していたのかは、はっきりしません。しかし、死んだ老人に対する施しや供養を連想させるところに、この話のなんとも後味の悪い不気味さがあります。
― 市長の隠し子説 ―
もう一つの説は、学校の怪談に近い色合いを持っています。
かつてのサウスエンド市長には不倫相手がおり、その関係から、ネズミの顔と手、尻尾を持つ子供が生まれたというのです。
市長は、その異様な姿をした子供を世間から隠すため、地下道に秘密の部屋を作りました。
しかし、成長した子供は肉の味を覚え、夜ごと地下道を通る人間を襲うようになります。
こちらは、悲劇的な死を遂げた老人の幽霊説とは対照的に、異形の子供が人間を襲う怪物談です。
市長の隠し子という秘密、地下道に隠された部屋、そして人間を襲う怪物。こうした要素が組み合わさり、子供たちの間で語られる学校怪談のような物語になっています。
― 目撃場所と現状 ―
ラットマンの目撃談で名前が挙がるのは、サウスエンド・ビクトリア駅付近のクイーンズウェイ地下道や、サウス・チャーチ・ロード(South Church Road)周辺の地下道です。
2010年代に入っても、地元の若者やオカルト愛好家の間では、こうした地下道を通ることが度胸試しのように扱われてきました。
実際の地下道には、薄暗い通路や死角があり、夜間には人通りも少なくなります。そんな場所で奇妙な物音を聞いたり、前方に人影を見つけたりすれば、普段なら気に留めないものまで不気味に感じてしまうかもしれません。
しかし、ラットマンの話が興味深いのは、単に「暗い場所に怪物が出る」というだけではないことです。
顔のない老人に出会ったら小銭を投げる。そんな具体的なルールが加わることで、怪談は単なる噂から、実際に遭遇したときの対処法を持つ物語へと変化しています。
2019年には、地元のホラー映画祭「ホラー・オン・シー」(Horror-on-Sea)で、マイケル・ホリデイ(Michael Holiday)監督による短編映画『ザ・ラットマン・オブ・サウスエンド(原題:The Ratman of Southend)』が上映されました。
こうしてラットマンは、地元で語られる怪談にとどまらず、映画などの題材としても扱われるようになっています。
― 歴史的・文化的背景 ―
地元作家ディー・ゴードン(Dee Gordon)は、著書『ホーンテッド・サウスエンド(Haunted Southend)』でラットマンの伝説を紹介しています。
この怪談が広まったのは、インターネットが普及する以前の1970年代から1980年代です。
パブでの噂話や学校の怪談として語られ、後年になって書籍やウェブサイトを通じて広く知られるようになりました。
もともとの伝承に、顔のない老人や小銭を投げるというルールが、どの段階で加わったのかは明確ではありません。伝説が人から人へと伝わるうちに、恐怖を強める細部が付け足され、異なるバージョンが生まれていった可能性があります。
こうした変化は、都市伝説では珍しくありません。話を聞いた人が別の人に語り直し、さらに別の人が新しい要素を加える。その繰り返しによって、ひとつの怪談が複数の顔を持つようになるのです。
また、ラットマンの舞台となる地下道も、伝説を考えるうえで重要です。
薄暗く、周囲から見えにくい場所。人通りが途絶えれば、そこは日常の町並みから切り離された空間のように感じられます。
そして、ホームレスの老人の幽霊説には、暴行を受け、毛布まで奪われて命を落としたという悲惨な物語があります。
社会から取り残された人間の悲劇が、ネズミに顔を食われた怪物の姿へと変わっていくところには、単なる化け物話では片づけられない暗さがあります。
― 小銭を与える現代人 ―
サウスエンドのラットマンは、1970年代から1980年代にかけて広まった、比較的新しい都市伝説です。
ホームレスの老人の幽霊なのか、それとも市長が隠した異形の子供なのか。伝承には複数のバージョンがあり、時代とともに細部も変化してきました。
なかでも奇妙なのが、顔のない老人に遭遇したら、足元に小銭を投げなければならないというルールです。
かつて毛布一枚を奪われ、寒さのなかで命を落とした老人。そんな彼が、死んでからもなお、通りすがりの人間に小銭を求めているのだとしたら――
生きている間は毛布一枚どころか、1ペニーすら与えなかった人間が、死者の怒りを鎮めるために、今度は小銭を投げる。そこには、なんとも皮肉な話があります。
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