■悪意の人形 ~ ミスター・ワイドマウス
今回はクリーピーパスタ(ネット怪談)の、ミスター・ワイドマウス(Mr. Widemouth)。
― 虚無の家 ―
私の家族は、広大な川を漂う一滴のようだった。
定住を知らず、幼少期の記憶はどれも断片的な手触りだけを残して、脳の屋根裏部屋へ消えていく。
だが、メイン州ニュー・ヴィニヤード――あの春の記憶だけは、腐敗した澱(おり)のように底に溜まっている。
3人家族には広すぎるその家は、不自然なほど「余白」が多かった。
5歳の誕生日を迎えた翌日、私はモノ(伝染性単核球症)を発症した。引っ越し作業のさなか、私物はすべて箱に詰め込まれ、私の部屋は空っぽだった。
高熱と孤独、そして感覚遮断。その極限状態が、私の精神を現実から切り離し、「デパソナライゼーション(離人症)」に似た自己喪失感をもたらした。その認識の「致命的な隙間」に、ヤツは滑り込んできたのだ。
― 異形の隣人 ―
ミスター・ワイドマウスとどうやって出会ったのか、正確な記憶はない。モノと診断されてから一週間ほど経ち、退屈が限界に達していた頃だったと思う。
部屋の隅、積み上げられた段ボールの影に「それ」はいた。
最初は、パッキングの際に紛れ込んだ、醜いぬいぐるみか何かだと思っていた。だが、その影は突如として読んでいた本から顔を上げ、私をじっと見つめて話しかけてきた。
得体の知れない存在への恐怖よりも、病床の孤独が勝っていたのだろう。私はごく自然に、その奇妙な生き物へ問いかけていた。
「名前はあるの?」
すると彼は、その巨大な裂け目のような口を歪ませて答えた。
「ミスター・ワイドマウス(大口さん)と呼んで。口が大きいからね」
名は体を表していた。頭、目、歪んだ耳。そのすべてが体に比して異常に大きかったが、中でも口の大きさは圧倒的だった。
その姿はどこか「ファービー」に似ていた。私が幼心にそう指摘すると、彼はそれを否定し、嘲笑するようにこう言った。
「僕は本物の友達だよ」
― 殺意の遊戯 ―
彼は狡猾だった。両親の気配を察知した瞬間にベッドの下へ滑り込み、私と親との信頼の糸を、一歩ずつ、確実に切り離していった。
接触から数日後、彼は「新しい遊び」を提案し始めた。
「廊下の突き当たりにある部屋。あの窓の外には、大きなトランポリンがあるんだ」
彼は私にそう信じ込ませ、飛び降りるよう執拗に促した。もちろん、そこにあるのは冷酷な地面だけだ。
それは悪戯などではない。現実と空想の境界が曖昧な幼児の認識を悪用し、「代理ミュンヒハウゼン的」な支配欲――すなわち、相手を害し、追い詰めることで己の存在意義を確認する歪んだ愛着――を持って、私を「自発的な死」へと誘導する、明確な狩りの手口だった。
私は拒絶した。すると翌朝、彼はさらに露骨な遊びを持ちかけてきた。ナイフを使ったジャグリングだ。5歳の私の中にあった、両親に教え込まれた「刃物は危ない」という防衛本能が、辛うじて私を繋ぎ止めた。
― 闇からの招待状 ―
やがて彼は、私の「眠り」そのものを侵食し始めた。
真夜中に私を叩き起こし、窓の外の暗闇を指差して、「今度こそ本物のトランポリンがある」と耳元で囁き続ける。
眠っても休まらない。部屋の隅を見るたびに、あの巨大な口だけが暗闇に溶け込み、私の肉が熟すのを待っている気がした。
体調が回復したある朝、彼は玄関先で私を待っていた。
森へ続く細い道を指差し、静かな、しかし確信に満ちた声でこう言った。
「今まで、たくさんの友達をあそこへ連れて行ったんだ。君もいつか連れて行ってあげるよ。……もうすぐだ」
その言葉に、子供らしい無邪気さは微塵もなかった。
そこにあったのは、コレクションの完成を予感する、蒐集家の冷徹な響きだった。
― 沈黙する石碑 ―
引っ越しが決まった時、私は彼にそのことを隠した。
幼い本能が「知られてはいけない」と警鐘を鳴らしたからだ。
車が家を離れる瞬間、私は二階の窓を見上げた。
そこにはミスター・ワイドマウスが立ち、その手には、遊び道具ではない本物のステーキナイフが握られていた。
数年後、私はあの土地を再訪した。
だが、家はすでに焼失し、黒く焦げた土が異様な気配を封じ込めているだけだった。
私は、かつて彼が指差した「森の道」を辿ってみた。
行き着いた先には、小さな墓地があった。
並んでいた石碑の多くは、私と同じくらいの年齢で人生を終えた子供たちのものだった。
もしあの時、私が彼の「遊び」にほんの一歩でも踏み込んでいたなら。
私の名前もまた、あの沈黙した石碑の列に、刻まれていたに違いない。
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